「自分の力を試したかった」
ソニーを離れ、人脈や思考法に影響を痛感
アローグラフ坂本学さん
ソニーが生み出したのは技術だけではない。おしゃれで、ユーザーが操作しやすい機能的なデザインも、ソニーの代名詞と言える。ウォークマンにしろプレイステーションにしろ、技術とデザインの融合が、かっこいい最先端の製品を生み出してきた。入社3年目でプレステの初代ロゴを作ったのは、デザイナー坂本学さん(49)。数々の製品開発にかかわった後、「自分の力を試したい」と2011年春に独立した。いまや10本以上の仕事を並行して請け負う売れっ子は、人脈や思考法などにソニーの財産を感じるという。
坂本さんの会社「アローグラフ」の事務所があるのは、東京・お台場。ジムや会議室も備え、soho可な賃貸オフィスビル7階の50平米ほどを借りている。社長一人の所帯ながら、デスクトップパソコンを置いた机は4台。センスを感じさせるデザインの小物や家具が置かれる。真空管の音楽プレーヤー、アート風の照明器具、書棚には英書、応接セットのテーブルにはチョコ。窓外には港が見える。なんとなく海外のデザイン事務所を思わせる雰囲気だ。
今年の3月から4月は連日、徹夜続きだった。毎日違う締め切りを抱え、「今までの人生で一番働いた」(坂本さん)。ソニー時代も「社畜」「24時間営業」と言われていたが、その時以来の第二の波、いや、それ以上だった。そんな忙しい中、5月には2週間ほどアメリカ出張にも行った。
現在進行中のプロジェクトは、例えばこんなふうだ。シャープの蓄熱技術のブランディング、オムロンヘルスケアのある商標のコミュニケーション・デザイン、ソニーのある商品のコンセプトデザイン、能美防災の防災システムのユーザー・インターフェイス(使い勝手)やユーザー・エクスペリエンス(UX、満足度を高める使い勝手全般)のデザイン、某大手車メーカーのUXデザイン、あるカードゲーム会社のブランドロゴ・デザイン……。業種も、対象となる商品やサービスも幅広い。デザインする内容も、ブランディング、UX、ロゴと、多岐にわたる。行政からの受注もあれば、広告代理店との協業もある。ほかに、コンペにも参加し、絵本の原画制作までしている。
「(独立後に)仕事を断ったことはほとんどありません。ノーと言えない性格なので」と苦笑する。スケジュール的に重ならないからできると判断して請け負う。でも予定通りに進まないのが常で、後ろにずれて団子状態になってしまう。
「やるからには迷惑をかけられない。けれど、経験上、寝なくても何とかなる」。結果、徹夜続きに。土日もつい8時間ほど働いてしまい、一日丸ごと休日の「完オフ」はこの2カ月ほどはない。3人の学生インターンに作業を手伝ってもらっている。独りの会社なので、行き詰まった時にもらえる彼らの意見もありがたい。
努力家でもある。英語力を保つために、月に1冊をノルマに英書を読む。移動中や就寝前など、毎日少しずつ。ピケティの『21世紀の資本』も英語で読んだ。
もう20年続く習慣だ。最初はミステリーや文学から入り、最近はノンフィクションばかり。「英語で読む方が理解できて面白い。翻訳だと8割くらいしか伝わらない気がする」
英語は、できる方が仕事の幅が広がるし、デザイナーとして多くの情報をインプットしておくのにも役立つ。視野を広く持ち、いろいろなことを吸収している方が表現の幅が広がる。英語圏で流通する情報は日本語より圧倒的に多い。それらに直接触れる方が扉は広がる、というのだ。
ソニー時代の人脈からj:comで仕事
子供の頃から絵が好きだった坂本さんは、筑波大でデザインを学んだ。企業実習に応募したのがきっかけで大好きだったソニーに入社。ソニー時代に学んだことはたくさんある。
例えばオフィス。自宅をsohoにするデザイナーもいるだろうに、独立と同時に今の場所を借りた。「器は大きく持て」という、ソニーの出井伸之・元社長(1995~2000年社長、99~05年CEO)の言葉にならったからだ。
「人間は決めた器以上にはなれない、器は大きく持った方がいい、と出井さんが言っていた。できるかどうかではなく、人は器に合わせる、と。それを鵜吞みにして(笑い)。自宅がオフィスだと客も呼べないし、コストは安いけれど、こじんまりまとまってしまう気がした」
光熱費も含め年間250万円ほどの負担だが、「オフィスを借りるのは譲れないと決めていた」。人を雇うのに比べてオフィスならいつでも切れる。もちろん収支計算はして、独立後1年間は仕事が入らなくても暮らせるだけの貯蓄を用意していたが。
独立して最初の大きな仕事は、ソニー時代の人脈からだった。ケーブルテレビ会社「j:com」がセットトップボックスを自社開発するプロジェクト。最新の技術やデザインを取り入れたいという要望に応え、開発会社に渡すプロトタイプを作った。コンサルタントがソニー時代に一緒に仕事をした人で、紹介されてコンペに参加。海外のそうそうたる大手代理店との競合に勝った。
「たまにアイデア出しで『ソニーっぽいですね』と言われます。発想の仕方でしょうか。常識の路線を外してモノを見ることを訓練されたので」
日本人は謙譲が美徳とされ、身内や自社のことはよく言わない傾向がある。だがソニー時代に海外の人と働く機会が多く「なぜ自分の会社を低く言うのか」と言われた。そうだなと思った時、素直に誇れる会社だった。
「人がしないことに挑戦する、というのが企業風土。それでうまくいくと松下とか大手が参入してきた(笑い)。業界のモルモット、実験台、と言われてましたけど、その精神は素晴らしいと思う」
上下関係よりも、誰が責任者かが重視された。「入社1年目でも、あなたが責任者でしょと任されたら、社長や会長プレゼンも、自分でしゃべる。上司は代わりに話してくれない」
入社3年目でプレステのロゴを任された時も、自分で社内プレゼンをした。その繰り返しで責任感を植え付けられたと振り返る。「デザインは、作って、伝えて、次の人につながるところまでしないと、仕事をしたことにならない」
プレステのロゴも、ソニー銀行のトータルデザインも
プレステのロゴだけではない。ソニー時代にかかわった仕事は、単純に広告やロゴ、プロダクツ(製品)などをデザインするだけではない。企業ブランディングをデザインの視点から考える仕事もしてきた。
坂本さんが入社したのは90年。最初に配属されたデザイン部門では、社内にあふれるロゴや書体などのデザインを、企業ブランディングの視点から整理した。多角化を始めたソニーの、企業としてのブランド戦略の議論にもデザイナーとして加わった。
2000年にシニアプロデューサーになると、社長直轄の全社プロジェクトにデザイナーの立場として参加した。ソニーがモノからコトへとシフトする時期。競合他社が松下や東芝、日立、シャープではなく、アップル、グーグル、マイクロソフトなどソフトウエア会社になっていた。
音楽配信サービスの仕組みを作ったり、デジタル化に伴って増える情報に名前を付ける方式を社内で統一規格にしたり。アマゾンのリコメンドのような、数多くの情報の中からユーザーが選びやすいセレンディピティ(幸福な偶然性)をどう演出するかといった、デザインによる使い勝手や見せ方の研究・開発もした。
印象深い仕事が、2000年から1年がかりで準備した、無店舗・ウエブ専業の金融業「ソニー銀行」の立ち上げだ。銀行業というサービスがどうあるべきか、元銀行マンら20人ほどと議論した。
それまでは銀行というと重厚長大、安心安全、でもお金については汚いイメージがあり大っぴらに語られなかった。そういう印象を変えようと、夢をかなえるための「MONEYKit(マネーキット)」という仕組みを作った。ウエブ上では四角いボタンを並べ、ユーザーが選ぶと動く。最先端だったフラッシュというプログラムを勉強して組み込んだ。顧客ごとにお金の使い方に応じてシミュレーションができる。
マネーキットは、ロゴもパッケージもポップな感じに仕上げた。口座を開設すると送られてくる説明書などのキットは、赤青黄などの鮮やかな色のCD。メーンバンクではなく、夢をかなえるためのセカンドバンクであることを、デザインで「見える化」した。
「アートは自己表現ですが、デザインは他者を表現してあげること。デザイナーごとのスタイルはあるけれど、それは本質ではない。世の中に何かを伝えたい、表現したい、分かってほしい、ということを、どういう手法で伝えるか。分からないものを分かる形に変える仕事。言葉で伝えるのがコピーライター、ビジュアルに長けているのがデザイナー」
海外のデザイナーに触発され、「力を試したい」
ソニーでは米国で計9年働いた。結果的にその経験が独立への布石になった。
最初の海外経験はナイキとソニーとのデザイナー交換プロジェクト。入社4年目で、第1期生として1カ月、ソニーに在籍しながらオレゴンのナイキ本社で働いた。彼らは、詩人ら異能の人材を抱える外部の代理店と広告を作っていた。
2度目の経験は97年から3年間、米国・ニュージャージーに赴任した。当時、北米と欧州(ロンドン)は2大海外拠点(その後、上海やシンガポールも拠点化)。海外では人々の好みも生活様式も違う。デザインや使い勝手を現地仕様にしたり、現地のみの限定生産品を作ったり。例えば、米国で流行っていたストリート系をパッケージデザインに採り入れたウォークマンを発売、ヒットさせた。
3度目の米国は部長職で、2004年11月から6年間。サンタモニカの事務所を立ち上げた。北米の本社機能を東海岸から西海岸のサンディエゴへ移転させる大事業のためだ。西海岸に集積している映画や音楽などのソフト産業に会社が力を入れていた。部下を採用し、契約の処理や予算管理もして、経営の仕方を学んだ。
ディレクターとして、グラフィック5人、インターフェイス5人の部下をマネジメントした。米国はCATV文化なので、テレビのリモコンも違う用途や機能が求められる。米国向けの端末などを開発した。
この時は最低でも5年は滞在する予定だった。日本に戻る頃にはちょうど、社内でキャリアを積んで出世するか、デザイナーとして独立するか、考えるタイミングだと思った。
それまでも外部のデザイン事務所との共同作業が多く、才能ある人たちと知り合っていた。特に海外には起業家的なデザイン事務所が多い。デザイナー職は、外へ出て力を試さないといけないのかな、と感じていた。
というのも、日本では「ソニーの社員です。デザイナーです」と自己紹介するが、海外では逆だ。「私はデザイナーです。ソニーに勤めています」となる。スキルを持っている人はそうあるべきだ、デザインの経験を積んだら自分もと、前向きに捕らえていた。
宮仕えに疲れてもいた。米国市場に参入するためのデザインなのに、現地スタッフの判断を東京本社が否定する。自分はどちらの味方かと言われても、結局は東京が勝つ。中間管理職のつらさだ。
企業の中で働くことは企業の常識を満たすことで、視野が狭くなる、と思った。ソニーが悪いのではない。どの会社も同じ。企業に残るのは、自分に意志があるとやりづらい、何のための苦労かとストレスがたまる。それなら独立しよう、と思った。
そもそも、坂本さんは根っからのデザイナーなのだ。部長職での米国時代、仕事ではデザインをしないので、自分のためにデザインを作り続けていた。
「手を止めたら枯れると思った。しないと感覚がなくなると思った。デザイナーはアウトプットを作るのが価値なので」。趣味のように、ユニバーサルデザインなどの課題を、自分で考えては手を動かした。アイデア帳に落書きのようにサムネイルスケッチをし、コンピューターに取り込んで整える。どこかに売り込む目的ではなく、ただ考えた。
人事部には2年前には「辞めます」と宣言していた。「ソニーが嫌いだからじゃない。外で力を試したい」と。先輩にも何人も独立した人がいる。2010年秋の帰国後、「最低半年」は辞めないでくれと言われ、「最長で半年」と、翌年3月に辞めることに。会社が始めた、デザイン職の独立起業を支援する制度の第一号になった。
最後の半年はデザイナーに戻り、アートディレクションをした。「あと2カ月いるとボーナスが出るよ」との甘言にも乗らず、予定通り2011年3月に退職。4月に起業した。
ちょうど311の直後。仕事がない可能性もあった。不安にはならなかった?「ダメなら、何をしてもいいやと思っていた。学生時代に肉体労働もやったし」。融資を受けずに起業できるだけの軍資金は貯めてあった。独り身なので家族の反対もなかった。周囲からは「勿体ない」とよく言われたが、「あれもしたい、これもしたい、というワクワク感の方が勝った」。
「やらされてる感がない、ストレスもない」
独立して改めて気付いたのは、会社で働くのとは心構えが全然違うということだ。ソニーは大好きだったし、素晴らしい会社だし、よく育ててももらった。それでも、仕事は「やらされているもの」。どれだけ自主的に動こうとしても、結局は会社の都合で仕事を押し付けられる。
「独立してみると、面白くない・楽しくない仕事でも、やらされている感が全くない。自分が『やります』と決めたことだからかな」
デザインの仕事には依頼者がいるので、形としては企業内でするのと変わらない。でも、会社員だった時の「やらされている感」が今は全くない。だからストレスもない。休日がなくても徹夜ででも、出来る。「やらされている」プレッシャーもない。
「会社では、何をしても結局、給与でしか評価されない。今は『いい仕事だった』とか、評価が聞けてうれしい。『何かの役に立っている感』が、より直接的に伝わるから、『やらされている感』がないのでしょう」
もちろん、会社員の方が気楽な部分もある。マネジメントも経験していて責任感を持っているつもりだったが、独立して「それじゃ足りない」と気付かされた。
仕事は、完成する前にいくらと金額を提示する。見積もりを書く時、怖くて怖くて仕方なくなる。本当にこの仕事に責任が持てるのか、約束をしてしまって大丈夫なのか。しかも学校のテストと違って、100点満点ではない。80点は落第、100点で当たり前、100点プラスアルファをどれだけ提示できるかだ。
それでも「悩んでも仕方ない」と、坂本さんは明るい。真摯に向きあうと何か出てくるはずと言う。
この楽観性は、起業家向きだろう。独立直後の本当に仕事が少なかった時期、オフィスには週1度くらいしか来なかった。代わりに美術館に行ったり本を読んだり。それでも「独りでビジネスをしていると、遊びを含めて無駄はない。何かどこかでつながっている」
例えばネットサーフィンでの情報収集。会社勤めなら「何をしている」と叱られる無駄な時間だ。でも、直接のパフォーマンスにはつながらなくてもいずれ何かがつながってくる。いろいろなウェブページのデザインを見ているだけでも世の中のトレンドが分かる。信頼のおけるリサーチ会社のトレンドレポートもいいけれど、生の情報に触れて見えてくるものも大事だ。
人を雇うか単独で続けるか、後輩の育成も課題
ずっと課題として考えてきたのが、人を雇うかどうか、だ。当初は、いずれスタッフを採用するつもりだった。独り起業だと、自分に何かあった時にどうするのか。事故や病気などで納期に間に合わなくなるリスクはある。クライアントにもそう心配されたが、最後はそのリスクを取ってでも自分というデザイナーと組みたいかどうか、だ。
独りで作るものに比べて、組織で仕事をすると、どうしても質が薄まる。丸くなる。リスクヘッジしただけのクオリティーになる。
とはいえ一人で抱えられる仕事の量には限りがある。それは大きな課題だ。
仕事の質には、①アプローチ②プロセス③アウトプットの三つがあると思っている。仕事の価値は評価しづらい。このくらい時間がかかるから、このくらいの対価で、と時間単価で見積もりを決めている。
③の質を上げるのは当然だが、経験値による①②も上げたい。③だけを追うなら効率重視、経営重視になり、金にならないサービス残業は無駄となる。でも、人間同士の付き合いなので、ひざを突き合わせて話したり相談したり、1万円の仕事も100万円の仕事も、同じ熱量で取り組みたい。1万円の仕事が次の仕事を連れてくるかもしれないから、おろそかにはできない。自分なりのベストを尽くしたい。
結局、今はインターンの学生に手伝ってもらうことで乗り切っている。学生には社会経験になり、会社は社会貢献になる。戦力としては未熟だけれど、手間暇のかかる地道な作業を頼めるのは助かるし、彼らに学ぶことも多い。後輩の育成にもなり、次世代に何か残したいとの思いにも合った。
時代も変わってきた。フリーの人とアライアンス(契約)で仕事をする、という手法が登場した。お互い助け合うネットワークができつつある。コストをかけずフレキシブルに、プロジェクトごとに組む人を変えられる。「組織を持たないのが、これからの仕事の仕方かもしれない」
夢はと尋ねると、「デザインを文化にしたい」と語る。純粋芸術(アート)は文化として残る。工芸も、道具ではあるが作品として継承され残る。でもデザインはそこまで行ってない。「デザインを、依頼仕事やツールではなく、文化の担い手と認識されるようにしたい。文化のレベルにまで持ちあげたい」。それは自分の代、一代ではできない。志を引き継いでくれる人材を育てる必要があると考える。
美大で教えるオファーも来ている。デザインを文化として認められるようにするためにも、学生に教えたいと思っている。
インターンの学生にも、時間があると公共デザインを考えさせる。「デザインにできることは、見える化、顕在化。社会問題を意識に上らせ、顕在化させることは解決につながる」。いじめ、ジェンダー格差、高齢化など、どんな課題も、デザインが解決に寄与できるかもしれない。そう、自負している。
(2017・5・26執筆)