経営者、会社員、カメラマン、会社顧問
「忙しい、でも楽しい」
「デュアルワークは僕らの世代の特権」
大企業時代の経験・人脈生かし、緩やかにつながる個々の事業
いくつかの仕事を同時並行で進めるデュアルワーク(複業)。正業を持つ人のサイドビジネスという意味の「副業」ではない。複数の異なる仕事を自分軸でマネジメントするのだ。これからの標準になりそうな、そんな働き方を実践している元大企業勤めの会社員たちがいる。四つの仕事をする男、入江啓祐さん(48)もその一人だ。
自分で会社を経営しながら、ほかの企業で社員として営業部長を務め、ベンチャー企業の顧問、フリーのカメラマンとしても活動している。任意団体の事務スタッフでもある。業務委託まで数えると、仕事の名刺だけで9枚に上る。それぞれの仕事で得た知識や人脈が、緩やかに循環して他の仕事を活かす。「忙しい、でも楽しい」という入江さんは、「デュアルワークは僕らの世代の特権」と胸を張る。
モザイク・ワークスタイル
入江さんの仕事時間はモザイクのように細切れだ。
平日は、午前7時台に起床。起きるとすぐメールチェックをする。自ら経営する会社「スパチオ・イデア」は小ロットの輸出入業で、海外からの問い合わせが深夜や早朝にも入るからだ。必要があれば、現地の当局や相手先に連絡をする。
幸い、通関の申請や手続きなどは、日本以外の国ではほとんどがサインレス、捺印不要。pdfデータを添付すれば事足りる。パソコン一台あれば、いつでもどこでも仕事ができる。「IT時代じゃなかったら、複業はできなかった」と入江さん。捺印書面が必要な国内の手続きは、スタッフに代わりに行ってもらう。
シャワーを浴びて身支度して、東京・世田谷区内の自宅を出るのが午前9時。
平日に最も長い時間を注ぐのは、もちろん営業部長としての会社の仕事だ。就業時間は10時から19時まで。一昨年12月に雇われた。新規事業の営業部長として、都内のオフィスで部下を指導する。無駄に回れという精神主義は嫌いで、戦略的・効率的な営業を求める。自らもなるべく多様な人と会い、いろいろな会社と同時平行で複数のプロジェクトを立ち上げている。ときには夜の席もある。
出先への移動中や昼休みは、必ずメールを見る。ただし日中は会社の仕事の時間だから、見るだけ。どうしてもの緊急事態の時は、昼食をパスして手を打つ。
夜の席も少なくない。帰宅は午後11時か12時。そこから少なくとも日付をまたぐまで、また仕事。ジャケットを脱いでスウェット姿で、ソファーでくつろぎながら。昼間にチェックだけしたメールの返信も含め、当日来たすべての要件に対応する。時差もあり、ここでレスをしないと2日遅れになる。それは避けたい。
ひと段落して、そのままがくんと眠ってしまうこともしばしば。3時間も眠ればすっきり。自分では深く眠っているつもりだ。仕事が残っている時は2時間で目が覚める。
平日だけではない。時間はゆっくりだが、休日も仕事にあてる。午前中は自宅で電話やメールで応対。それからリュックにパソコンと資料を入れて、事務所まで10~15分のジョギング。午後5時ごろまでに仕事を片付け、あとはリラックス。
スパチオ・イデアのほか、顧問をしているベンチャー企業の仕事もあれば、任意団体のスタッフとしての作業もある。
こんなに細切れで、混乱したり忘れたりしないのだろうか。「忘れそうになりますよ。だからタスクをメモします」と、にこやかに入江さんは言う。タスク管理は紙だ。A4用紙1枚に、すべきことリストを書いておく。常に並行して10個ほどのタスクがあり、終わると赤線で消す。
業務の内容は異なるものの、それを入江さんという個人が統合・マネジメントしている。個人オリエンテッドな働き方だ。会社や上司といった第三者に決められたことを、受け身でこなすのとは違う。書籍『ライフシフト』によるところのインディペンデント・ワーカーズだ。
時間だけではない。空間も「自由に」、働く入江さん自身が管理している。その証拠に、毎月必ずある海外出張も、複数の仕事を組み合わせている。輸出入の商談、カメラマンとしての撮影旅行、任意団体のスタッフとしての海外イベントの現地手配、などなど。海外出張そのものは、会社に所属する以前から決まっていたため、会社の許可は得ている。ただし、営業部長の業務には支障が出ないよう、週末弾丸など最低限の有給休暇で済ませている。その日程は例えば――
昨年の2月は、金曜夜に出発し、1週間でNZ、シドニー、ブラジルの3か所を回った。月曜朝に帰国できるように、ブラジルからは3回乗り継いだ。
5月はリトアニア、ミャンマー。6月はスイス、サンマリノ。8末~9月がギリシャ、クロアチア。10月はパリ、11月は前半に1泊4日でモスクワ、後半にマレーシア……。
出張中も複数の仕事をモザイク状にこなす。別の仕事の問い合わせや手配に素早く応えるため、メールチェックは欠かさない。どこにいようと、日本で会社が動いている時間帯は起きている。
撮影の仕事をした後は、機上は写真チェックの時間になる。膨大な量の写真から使うべきコマを選び、キャプションをつける。帰国後すぐデザイナーに出せるようにしておく。
睡眠は3時間で何とかなる。どれだけ疲れた海外出張でも、どこかで1日泥のように寝れば回復できる。
仕事漬けのエリート社員
入江さんはもともと、大手航空会社の総合職だった。慶応大を卒業して入社したのは91年。バブルの時期で内定は5社。「人を見てくれる」と思って選んだ。
最初は支店で予約業務、25歳から4年半は本社で国内線販売の全国営業を統括していた。その後3年ほどイタリアへ。イタリア語も習得し、現地の人脈も作った。
2002年からは花形の国際営業に。精鋭ぞろいの中で5年半生き残った。全社の営業戦略を立てる部署だ。中国・韓国で日本の文化を紹介することが開放されたため、アーティストの現地ライブやファン向けイベントも設定した。日本酒を世界に広げる企画にもかかわった。そこから立ち上がった任意団体で、退職後に自らもスタッフを務めている。
いつ体を壊してもおかしくないほどの働きぶりだった。土日もなく海外出張もしょっちゅう。欧州との調整と北米との調整を掛け持ちで担当していた時は、午前2時退社で朝9時出社も当たり前。それでも自分の裁量でばんばん決められる仕事が面白く、長時間労働がいやだとは思わなかった。
その後、客室本部に異動。客室乗務員に関わる仕事を9カ月したところで、退職した。知人の経営する貿易会社を手伝うことにした。
その2年ほど前から、「一緒に仕事をしよう」と誘われていた。知人はイタリア駐在時代の知り合い。待遇面は航空会社と同等以上を保証してくれた。国際営業時代は辞めるつもりはなかったが、客室担当に移ったのが契機となった。
当時38歳。22歳で入社してから、56歳で役職定年するまで34年ある。そのちょうど半分の時期だった。
「それまでの17年を振り返ると、僕ほど面白い仕事をした人はいないだろうと思った。与えられた業務はむちゃくちゃ楽しかった。でも、その先も同じように楽しいのか。考えた挙句、ならば、面白いと思える仕事に時間を使いたかった」
親にも妻にも事後報告。だが妻は「好きにしていいわよ」と言ってくれた。2007年12月に退職、翌08年1月から、知人の貿易会社に入った。
この貿易会社は、いま経営するスパチオ・イデアの「兄貴分」にあたる。限定的に輸出入したい小ロットの商品を扱う。バレンタインの時期だけ百貨店に並ぶ高級チョコや、海外の見本市の期間だけ出店する希少酒や紳士服の生地など。
少量で、かつ、その時限りで継続性はない。手間はかかるので、間接部門を抱えたらペイしない。だから大手は参入しない。一方でどうしても運びたい人がいて、高い手数料でも依頼は来る。ロットは少ないからクレジットカード決済もできる。海外の見本市直前になって依頼が舞い込み、あらゆる手を使って無事、間に合わせたこともある。
この業務に入江さんほどうってつけの人材はいない。行きたいところは行きつくしたほど、世界中を見てきた。現地の通関業務を頼める人がいるかどうかが肝だが、入江さんには在外の知人は多い。航空会社にいたため、航空貨物の取り扱い方法や注意点も知っている。
その後、この会社が異なる分野に重心を移したため、入江さんが得意な欧米系を引き継ぎ、スパチオ・イデアを立ち上げた。おいそれと参入できる業務ではないからブルーオーシャンだ。競合はおらず、気楽だ。この会社さえあれば、普通に暮らせるだけの収入は十分得られる。結果的に、今の年収は、航空会社の時より多い。
2010年にはベンチャー企業の顧問も始めた。インターネットの旅行会社で、航空会社時代の知人から手伝ってほしいと頼まれ、社外アドバイザーとして入った。
カメラマンとして本格的に仕事を頼まれるようになったのはこの2年ほどだ。その前からイタリア語、スペイン語、英語ができるので、通訳兼運転手兼リサーチャーとして、海外取材のアテンドはしていた。航空会社時代に機内誌の編集を担当し、転職して旅行雑誌を作っていた後輩の依頼だった。
写真は趣味だった。なかなか行けないような海外で、撮った写真をFBに上げていただけだ。だがある時、FBの写真を「使わせて」と、その編集者に言われた。どうしてもその地域の写真がほしいが、ほかで見つからないという。
これをきっかけに、取材旅行でカメラマンもするように。出張旅費がタイトな中、通訳・運転手・コーディネーターがカメラマンまで務めれば一人4役。重宝されている。
8年ほど、一人で自立して仕事をしてきた入江さんが、再び組織に所属することになったのも、やはり航空会社時代のつてだ。2015年の11月、かつて一緒に企画を実現した役員から、新しい会社で営業職を探していると連絡が来た。
「(スパチオ・イデアで)してきた仕事は、必要とされている実感はある。社会の役にも立つ。けれど、僕が死んでしまうと残らない、形に残らない仕事。それはそれでいいけれど、会社というチームになると、何か社会に残すことができるのではないかと思った」
12月の頭に面接を受け、1週間後から来てほしいと言われた。立ち上げで人手不足だった。それまでの仕事との複業を認める条件で、会社員になった。そして4足目のわらじが加わった。
デュアルワークは現代の特権
航空会社の時代も自由な会社員だった。本当に楽しかった。でも、退職後のいまの働き方もまた、面白い。精神的な充足感も収入面でも。収入を得ている四つの仕事と一つのボランティアは「サイドワークではなくデュアルタスク。複業です」。サラリーマンが趣味を副業にするのとは違う。「各々の仕事が緩やかにリンクしている。この方が仕事が回る」。「所詮、好きなことしかやっていません」とは言うものの、仕事はえり好みしない。来た球は、どうしても無理なもの以外は打つ。
自分たちバブル世代は、複業を考えることができる「特権的」な世代だと、入江さんは見る。かつて高度成長で一つの会社に滅私奉公した世代は、老後の年金は安泰だった代わりに、定年前に会社を辞めて転職したり独立したりすることは珍しかった。人生は一本道と思い込んでいる人が多かった。
時代は変わった。年金も減る時代。一つの会社で勤め上げても老後の安心は約束されていない。技術革新によって、過去の蓄積は先々、必要とされなくなる可能性がある。パラレルワークをしなくていい人は、特殊なスキルがある人や理系の人などに限られるだろう。「バブル入社した大量の大卒文系の人に、『その人じゃなくちゃできない仕事』はいくつある? ほとんどないでしょう」
一方で、転職や独立は特殊でなくなった。会社員として定年まで過ごす以外の働き方の選択肢は広がった。では、どう社会から対価を得るか。生活の糧を確保するか。一つの答えがデュアルワークだと、入江さんは言う。「東京で、サラリーマン一本で暮らすのはリスキー。複数の選択肢を持っていた方がいい。でないと、人生を最後まで楽しく暮らせるかわからないでしょう」
かつて勤めた航空会社には感謝している。いい時代にいい会社で育ててもらった。財務経理も研修で教わったし、TOEICも取らせてくれた。社員の教育研修が充実していた。いまや、そんな会社は少ない。自分で勉強しろ、個人がリスクを取れ、という時代で、若い人には酷だと思う。
これだけ充実している入江さんにも、課題はある。これからの働き方だ。「50歳から60歳の、最後の10年間は、本当に自分のしたいことがしたい、と思っている。でも、それは何なのか。あと2年でそれが何かを見つけたい」。もちろん、「本当にしたい」ビジネスが見つかったとしても、今の会社は続ける。ニーズがある限り、人の役に立てる仕事はやめられない。
人生の楽しみは「新しいことを知ること」という入江さん。「初めてのものを見る、知らない国に行く。自分の知識の外にあるものが好き。だから毎日同じなのは耐えられない」。そんな入江さんにとって、毎度毎度、違う国・違う相手に、異なる商品を届けるという今の仕事は天職かもしれない。
(入江さん本人の写真以外、写真はすべて入江さんが撮影。下の4枚は入江さんの撮影した写真が掲載された雑誌のページ)